「ひらかたパーク」で知られている枚方は、京都と大阪のちょうど中間に位置することから、古くから交通の要衝として栄えてきました。江戸時代に「東海道」の延長として整備された「京街道枚方宿」の面影を残す町並みは、現在はセンスの良い町家カフェや市立の資料館が並ぶ、観光名所となっています。
鉄道は、京阪電車やJR学研都市線が、自動車は国道1号バイパスや第2京阪道路など、交通の便も優れた場所で、ショッピングモールや商業施設も多く、また、圏内に豊かな自然もあるという、色々な楽しみ方が出来る町です。

京都・大阪・奈良に隣接する好立地。

枚方を創業の地とする蔦屋書店の商業施設、「枚方T-SITE」は、世界の建築賞を受賞。ディスプレイとしても圧巻の大きな本棚を写真に収めるために訪れる人も少なくありません。

おしゃれに生まれ変わった町家はカフェや雑貨のお店に。
枚方のおしゃれなお店検索は→観光情報誌「ひらいろ」

枚方市の西側を流れる淀川は水上運輸の重要な役割を果たしてきました。江戸時代に旅人を乗せた「三十石船」の乗客に、
「酒くらわんか~、餅くらわんか~」
と乱暴な売り言葉で飲食物を売りつける“くらわんか舟”と呼ばれた小舟は、広重の版画でも描かれ、この地のちょっとした名物でした。

現在は、大阪水上バスと一本松海運により、天満橋八軒家浜船着場と枚方船着場で観光船の運航が行われています。
→淀川舟運イベントについて

歴史

古代の枚方は、奈良、京都に近いこともあり、神話の時代から地名が登場する場所でした。枚方北部にある「交野天神社」の境内は、第26代継体天皇が即位したとされる「樟葉宮」があったとされる伝承地とされ、平安遷都を行った桓武天皇は、古代の枚方に「天壇」を築き天帝を祀りました。「交野ヶ原」と呼ばれる天野川以北を中心とする一帯では 鷹狩りが行われ、六歌仙の1人である在原業平が惟喬親王と訪れた「渚院」に、見事な桜が咲いていたと古典『伊勢物語』は語っています。

朝鮮半島の戦乱を逃れ日本へ渡ってきた百済王氏が、天平22年(750)に宮内卿兼河内守に任ぜられた後、 枚方の中宮に移り住みました。「百済寺跡」は昭和27年に国の特別史跡第1号として指定されています。

中世までは、「東高野街道」が枚方市内の主要交通路で、はるか高野山へ続くこの道を高野詣の旅人や、布教のための高野聖たちが通りました。戦国時代には、「光善寺」「枚方」「招提」の3つの寺内町が成立し、浄土真宗の寺院を核とした自治都市としてのまち作りが行われました。

豊臣秀吉が築いた「文禄堤」を基礎に、徳川幕府は「東海道」の延長として街道を整備し、「枚方宿」を置きました。岡新町、岡、三矢、泥町の4つの村で形成された町並みは、 現在も枚方宿鍵屋資料館を中心に散策ルートとして人気があります。

また、幕末の遺構として、日本に唯一残る河川砲台場跡が楠葉の久修園院近くにあります。政情不安の時勢、都へ出入りする者を取り締まる関所を兼ねた構造になっており、貴重な遺跡です。

昭和初期の枚方は、2度の大爆発を起こした禁野火薬庫や、枚方製造所、香里製造所などの陸軍施設があった場所でした。戦争の悲劇を繰り返さないために、昭和57年(1982) 「非核平和都市宣言」とともに香里製造所の煙突を戦争遺跡として保存し、不戦と平和を誓いました。

自然

枚方は生駒山系の国見山や琵琶湖水系の淀川など、自然も多く、その環境を活かした公園として整備された場所もあります。休日にぶらっと行ってみよう!という”ちょうどいい自然”を気軽に楽しんでみてください。

枚方の東部地区は、国見山登山ほか、日本の里100選にも選ばれた穂谷地区など、豊かな自然が残る場所。秋にはコスモス畑や、収穫された枝豆の販売なども。

大阪府立の風致公園「山田池公園」は、四季の花や野鳥観察など、楽しみどころが満載。広い芝生のエリアもあり、BBQを楽しめるエリアや手ぶらで楽しめるBBQ施設(有料)もあります。

枚方市の花「菊」。11月頃には毎年「ひらかた菊フェスティバル」が開催され、枚方市役所周辺や旧枚方宿などを菊の花が飾ります。100年近く続いたひらかたパークの「枚方大菊人形展」は、全国の人に枚方の名を知らせる一大イベントでした。現在は、規模を縮小しての新しい菊人形の形を模索中。

もうひとつの市の花「桜」。平安時代、鷹狩りのため交野ヶ原を訪れた在原業平は「渚院」の見事な桜を和歌に詠み、この辺りは人々が憧れる桜の名所となりました。

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